貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ 第7章 (92) |
財を蓄えず、食物の本性を知り、 解脱の境地は空にして、無相であるならば、 その聖者の足跡は知りがたい。 飛ぶ鳥の跡が知られないように。 |
仏陀は、何一つ不自由のない、贅沢三昧の王子の位を捨て去って出家したのです。 お城を出るときは普段着であったのですが、首飾りや腕飾りなど綺麗に整えられていました。しかし、まだ悟りに到る以前の、その出家直後に既に思われたことは、無欲であらねばならないと考えられたのです。そのため、道を行くみすぼらしい格好をした人と、衣類をそっくり交換したと伝えられています。 仏陀は基本的に最初からそのような考え方を持っておりましたから、仏陀の教えを受ける修行者は、三枚の衣と、鉢、それに寝具と水入れ、これら六品の他は何も持ってはならないと定められていました。 食べ物の本質とは何でしょうか。現代の私たちはこの点少し食べ物の本質から逸脱したところにあるように思います。 戦時中の話を聞いたことがあります。内地ではなく、硫黄島の近くの別の島だったそうですが、補給船が来なく、軍隊全員が飢え死にしそうになってきた時、とにかくネズミからミミズ、木の根っこまで食べたそうです。これが食べ物の本質ということです。 美味しいとかまずい、甘い辛いは本質ではないわけです。 食事をするときには、その食べ物は魚であるのかご飯であるのかなど、しっかり認識しなければなりません。 その上で、あれを食べたい、これを食べたいという欲望を起こしてはなりません。 解脱と言うのは束縛を離れた境地であると言えますが、束縛を離れた境地というのは、自らを主体にした境地であります。 その解脱の境地は空であり、無相でなくてはなりません。空というのは何ものも実在しないと言うことであり、怒りも迷いも実在しないということです。 無相というのは空を別の言葉で言っているでのあり、怒りの相、情欲の相、苦しみの相など実在しないことを言っています。 そのような境地に到った聖者ならば、その聖者自らが考え行動するものであって、まったく束縛されず自由に振舞いながら、 全ての行いは正しいのです。 その行いは聖者にしか分らず、凡人には図り知ることが出来ません。 まるで、飛ぶ鳥の航跡が見えないように。 |
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