貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ 第20章 (277,279) |
一切のものは無常であると知るのが、 明らかな智恵であり、 人は苦しみから遠ざかる。 これこそが清らかになる道である。 一切のものは非我であると知るのが、 明らかな智恵であり、 人は苦しみから遠ざかる。 これこそが清らかになる道である。 |
第20章は、道と題され、それに関連する詩が集められています。 ここに紹介した詩は、277番と279番ですが、その間の278番には、一切のものは苦しみであるという詩があります。 277は諸行無常、278は一切皆苦、279は諸法非我として知られている詩です。 一切皆苦はある程度離れていますが、諸行無常と諸法非我は近い関係にありますので、ここで取り上げてみた次第です。 一説によりますと、諸法無我といわれますが、非我と無我は大きく違うと私は思います。 仏陀の時代、ワレという我は存在するかしないかと言う論が哲学的見地から盛んに行われていました。しかし仏陀はその論争に加わることなく、独自の見解を打ち出したのです。 あるものが実在すると言うことは、そのアルモノがなければならないのですから、そこにあるアルモノは実体として存在しなければならない。山だとか机だとかそこに厳然としてあるものは実体をもち、未来永劫変化しないというのが、アルモノが実在するという考え方です。 あるものが実在しないと言うことは、未来永劫変わることのないものは存在しないということです。 しかし仏陀は、そのアルモノというのは、存在しないのではなく、存在しないこともないといっているのです。 そうしてさらに、そのアルモノは決して実在はしないと言い切っています。 もう少し分りやすく言いますと、 あなたがそこに認識しているあるものは、確かに存在していると言っていいのだけれども、実体として存在しているものではないのだよ、ということです。 ここに自分が何かを感じ、考えていることは紛れもなく自分がここにあることに間違いはない。しかしそれは未来永劫続くものではなく、絶えず変化しているのであると説いています。 自我は変化するものであるから実体を持ってはいない。従って実在するものではない。しかし、ここに厳然と自分はいるではないかと。 このことを、無我ではなく、非我といわれるのです。 空の根源的思想によっているのです。 すべてのものは、移り変わるものであり、我は実在はしないけれども厳然とここにある。 この理を正しく知ることこそ、心を清らかにする大切である、と説いているのです。 |
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