貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ 第17章 (227) |
過去にも言われている。 語らぬものも非難され、 多く語るものも非難され、 少し語るものも非難される。 世に非難されないものはいない。 |
アトラという信者が、ある長老に教えを乞うたが瞑想していて教えてくれず、別の長老のところへ行って聞いてみたら哲学論ばかりやたらに聞かされさっぱり分らなかった。 そこでやむなく更に別の長老を訪ねたところ、少しだけは話してくれたけれども、充分意を尽くした話は聞けなかった。 腹に据えかねたその信者は、とうとう仏陀にそのことを訴えたのでした。 すると仏陀は、この詩を説いて聞かされたのです。 アトラよ、昔から言われていることであって、今に始まったことではないのだけれども、多くを語らない人は非難されるし、多くを語る人も非難されるのだ。そして中くらいで適当な語りをした人は非難されないかと言うとそうでもないのだ、やっぱり非難されるのだ。 要するに、非難されない人などどこにもいないのだよ。と諭されたわけです。 私たちは一人ひとりものの見方も考え方も違います。価値観も違います。それぞれ別の立場でものを見るわけです。 ですから、多くを語っても、少なく語っても、あるいは適当に語っても、誰かは非難するのです。 ここでは語りの長さと言いますか、量の大小で述べられていますが、その真意は量の問題ではないと思います。 質の問題をこのような例えで語っているのです。 どのような内容のことを言っても誰かは異論を唱えるものです。 私は会社生活を長く続けてきましたが、いやというほど実感しています。技術的見解についてさえも、異論が出されるのであり、ましてや方針的な意見に付いては千差万別です。 何かの結論を出さねばなりませんから、大抵は人事権をもっている責任者が、色々の意見を聞いた後、エイッとまとめることになりがちです。 ま、それで結果がよければいいのですが、後日別の答えが正解であったと分ると、前にそれを言って採用されなかった人は、それ見たことかと大いに憤慨するのです。結果を見てからです。結果を見ないうちに、その決定は誤りだと憤慨して上司の考えを変えさせるほどのことはないのにです。 政治家も大変です。国民全部が賛成する政治など行えるはずがないのです。必ず反対者がいるのです。 このようなことを、語りの長短を例として仏陀は説かれているのです。 しかし単にそういうものだと言っているだけではありません。 色々の意見の出で来るのは世の習いであるからこそ、正しく洗練された自分の考えを持たねばならない。そして正しい考えを持つようになるためには、正しい修行を行わねばならないと、暗に言われているのです。 |
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