貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ

第14章  (183)
諸々の悪をなすなかれ。
衆の善につとめよ。
自らその心を清めよ。
これ諸仏の教えなり。
これはダンマパダの第183番目の詩ですが、漢訳では、七仏通誡偈といわれます。漢字のままですと次のようになります。

  諸悪莫作  (しょあくまくさ)
  衆善奉行  (しゅぜんぶぎょう)
  自浄其意  (じじょうごい)
  是諸仏教  (ぜしょぶつきょう)

この詩では最後の部分の諸仏が一つのポイントになります。
仏教では色々の仏がいて分りにくいです。仏陀すなわち釈尊はもちろん仏ですが、そのほかにも数え切れないほど仏がいるのです。
その原因は、仏という言葉の定義にあります。
覚った人はみな仏と呼ばれます。また、亡くなられると成仏されたといいますが、仏になられたわけであり、人の数だけ仏がいるわけです。
ここでの仏は、仏陀(釈尊)の前にいた六人の仏と、仏陀とを合わせた七人の仏を意味しています。
そのため、七仏通誡偈といわれるのです。
その七人の仏が口をそろえて同じ事を説かれたのです。悪いことをしてはいけないよ、皆のためになる良いことをしなさいよ、そして自らの心を清めなさいと。
だから七仏ともに通じた教えといわれるわけです。
もう一つのポイントは、「自らその心を清めよ」というところです。これはこの詩の言いたいことの主眼としてのポイントです。
心を清めた上での善でなくてはならないのです。
善と悪との区別は元々存在しないのです。何が善で何が悪かは定義づけることが出来ないのです。よく言われることですが、戦いで敵を沢山殺せば善なのでしょうか。大いに働いたからと言ってほめられるかもしれませんが、相手から見れば鬼畜生以上の悪者です。
ある行為は見方によっては善でもあり、悪でもあり得るのです。魚を獲ってきて料理を作って出せば殺生です。出されたお客は喜ぶでしょうけれども。
魚は殺生だけれども、草や木ならどうだ、と言われるかもしれませんが、草や木にしても一生懸命生きているのです。殺したことに間違いはありません。
何が善で何が悪なのかこのように見方一つでも変わってしまうのです。
また、絶対的な善とか絶対的な悪というものの実在はありません。空という見地から見てそれは実在しないのです。
それなのに、この詩は善をなせ、悪をなすなといっています。でもちゃんと心を清くしてと付け加えています。
この付け加えこそが重要なことです。
すなわち、清く正しい心で、自分が善であると思ったことをなしなさいと言うことなのです。清く正しくない心では判断を誤るからなのです。
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