貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ

第13章  (170)
世の中は泡のごとくであると見よ。
世の中は陽炎のごとくであると見よ。
世の中をこのように観る人は、
死王も彼を見ることはできない。
全ては空であると知るならば、死というのも空であると知るであろう。と説いているわけです。
直接空という言葉は持ち出さず、泡とか陽炎(かげろう)と言っていますが、その意味するところは同じです。
ここで陽炎と記しましたが、学術的にはなかなか難しいようです。
英文の訳によれば、蜃気楼とされているようです。
法句経には、野馬とされていますが、野馬というのはかげろうのことです。
かげろうを漢字で書くと、陽炎となります。
蜃気楼と陽炎は少し違います。
蜃気楼は、砂漠で本当は無いのにオアシスが見えたり、富山県の魚津で見られる海上の都市のようなものです。
陽炎は、夏の道路に湯気のように、実際は静止しているのに、ゆらゆらと揺れ動いて見える現象です。
蜃気楼ととるならば、この世の中は実際に在りはしないのに、それをあたかもあるが如くに思い違いしている、と言うような意味になります。
陽炎ととるならば、いつも揺れ動き変化しているのがこの世の全てであり、絶対的に存在しているものはない、というような意味になります。
どちらの解釈もあるようですが、私は、陽炎の方がより的確に表現されているように思います。色々のものはそこに無いわけではなく、確かにあるからこそ認識もされるのですが、それは絶対的な存在ではなく、絶えず変化しているものだという方が空の考え方に近いと考えるからです。
蜃気楼ととることも決して誤りではありません。ただ、本当は在りはしないのに、と強調がされすぎているように思うだけです。
さてそれで、この世の中を陽炎のようであると思い得るようになった人、つまり賢者は死ということも陽炎のような空のものであることを悟り、死に臨んでも苦悩することは無いと説かれているわけです。
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