集諦
集諦というのは苦を作り出している原因のことをいいます。
仏陀には宗教家の側面と、哲学者の側面とがありますが、初転法輪では分りやすく説くことを第一として、難しい哲学は避けられたものと考えられます。
この初転法輪において四諦が説かれたわけですが、実はその中にすでに空の論理の根源である縁起の論理が適用されているのです。
知らず知らずのうちに見事に説かれてしまっているのです。
それがこの集諦です。
すなわち、苦は独立に存在するのではなく、必ず苦には原因があると言われたわけです。
そうしてさらに、苦と言うものは永遠に変化しないものではなく、従って苦は空であることをも暗示しています。
それは滅諦と道諦によって苦を消滅させることが出来るという点から言えます。
消滅する、即ち変化するわけですから、永遠に不滅なものではありません。変化するものは実体を有しないわけです。
実体のないことを空というのです。ですから、直接語りはしていませんが、苦は空であると暗に示していると言うことができます。


苦が原因によってできていると言うこと自体、苦が独立して存在するのではないから、実体がなく、従って空であるとも暗に言っているのです。
苦諦は集諦によって生じている。という言い方はいかにも分りやすい言葉ですが、実はその奥には縁起と空の論理がきっちりと入っているのです。
初転法輪において分りやすく宗教的な説き方をしていながら、空の哲学がしっかり裏打ちされているのです。
確かに原因のない苦はありません。
ただ、老いるという苦について、老いる原因は何だと考えたとき、細胞レベルや、DNAレベルで原因を探しても答えにはなりません。
2500年も前に仏陀が言ったのです。老という苦には原因があると。
人間に生まれたから、そして一日一日を生きているから老いるのです。
しかし老いること自身が苦なのではなくて、老いることを苦にするから苦になってしまっているのです。そう考えてみると、老いることを自分が苦にしていると言うことが原因になっています。
給料が安いと悩んでいるとすれば、その原因は何でしょうか。
自分が望むだけ貰えないということならば、少なくとも自分が望んでいるという原因があります。
色々の原因によって苦が生じている、というその原因に必ず、自分が苦にしていると言う原因のあることに気がつきます。
この自分が苦にしていると言うことが、苦を生じている大きな原因であります。
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