貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ

第24章  (349)
考えが定まらず、心が乱れ、
愛欲が激しくつのるのに、
愛欲は清らかだと言う人は、
愛への執着をますます深める。
そしてこの人は、
束縛の絆を実に堅固にしてしまう。
私はキリスト教のことはあまり勉強していませんが、「隣人を愛せよ」などと、愛を大切にしているのではないかと思います。
しかし仏教では、愛に執着してはならないと言います。
仏教では、慈悲と言う言葉がありますが、これは愛欲とは違います。
私も若い頃、真剣に恋をしたことがありますので、愛欲の意味は理屈でなく、身をもって経験的に理解しているつもりです。
愛と言う言葉を辞書で調べても、なかなか適切な表現はなされていないように思います。もっとも、それは自分の経験を的確に言い表していないという意味であって、定義がまちがっているという意味ではありません。
私の経験上における愛と言うのは、今思うと、自分のものにしたいという欲望が主体であったように思います。
あの人が好きだ、愛してしまったなどという意味では辞書の表現「異性に対する性愛の欲望」と似ているところもあります。
愛欲のもう一つの意味は、深く妻子などを愛する情を意味します。この場合は自分のものにしたいという欲望はあまりありません。
この詩の言っているところを見てみましょう。
考えが定まらず、心が乱れると言うことは、自分の生き方を定めておらず、善悪の判断基準も持っておらず、さらに法についても知っていないことを表しています。
ですから、色々の場面で常に心が揺れ動く様を言っています。
そのような無知の人が、心のおもむくままに、正しい制御を行わないならば、異性を自分のものにしたいという性愛を益々募らせ、妻や子を溺愛するようになっていきます。
しかし更に問題が出てまいります。
愛は心として清いものだと考え、正しいことだと勘違いしてしまうことです。慈悲心は清く正しいことなのですが、この愛欲は苦の源になるであろう事を認識していないが故に、正しいことと思ってしまうのです。
仏陀はいいます。そのように思う人はますます愛欲の執着を深め、のっぴきならない束縛状態になってしまいますよと。
私なりに付け加えるならば、愛に執着すること自身は心清いものであるとは思うのですが、確かに仏陀の言うとおり、それが故に苦しまねばならなくなるのです。適度な制御が必要であると実感します。
なぜなら、私の先に述べました激しい恋の結末は、最愛の彼女の突然の死ということになってしまったのです。心筋梗塞で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
私は相当のダメージを受け、苦しみました。
愛は苦の元だと実感した次第です。
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