貝葉に見る般若心経の秘密 ダンマパダ 第2章 (21,22) |
努力し務め励むのは不死の境地であり、 努力せず怠けるのは死の境地である。 努力し務め励む人は死ぬことはなく、 努力せず怠ける人は死者のごとくである。 賢者はこのことを正しく知っており、 努力し務めることを喜び、 聖者の境地を楽しむ。 |
この詩は、不死とか死の意味をまずつかまないと理解できません。 死と言うのは生物としての生命の収束を意味するものではありません。生きがいを持たず、惰性で生きているような生活は生きていることの価値はないことを死と表現しているのであり、不死というのは、充実感あふれる生活を送っていることを意味するのです。 努力して務め励むということももう少し意味があるようです。単に我武者羅な努力、例えば毎日の深夜残業のようなこととは多少違うようです。もちろんそういう努力も包含されますが、もっと広い意味で捉えなくてはなりません。 たとえば、恨みに堪え、恨みを捨てる努力をも言っているのです。そのような努力をすること自体が不死の境地であり、充実した生活となるのです。 反対に、恨みを怨みとして持ち続け、これを捨て去る努力をしない人は、いつまで経っても楽しく充実した生活を送ることはできません。死の境地だと表現されているわけです。 般若心経では、死と言うことについて、無、即ち空だといっていますが、ここではもう少し現実的に捉えています。 別の所でお話したかもしれませんが、私は今首の椎間板ヘルニアで入院生活を送っています。 少し良くなってまいりましたので、転院して養生する段階になっていますが、前に居た病院でのことです。 リュウマチがひどく、ほとんど指もなくなり、スプーンを握るにも難儀されておられました。足腰も悪く、車椅子でやっと動ける程度です。しかもこの方も頚骨の病気で手術され、頭を上げ下げすることも出来ないカラーを装着しておられます。 でもその方は8人部屋の中で一番明るく、楽しい闘病生活を送って居られました。 辛く ありませんか?と尋ねますと、「もう私は病気のことはくよくよ思っていません。皆さんと楽しくお話させてもらい、ご飯をおいしく頂ける事は本当に有り難い事だと思っています。残っている命をフルに使わせてもらっています。」と言っておられました。 食事のありがたみを知り、会話のありがたみを知る、そして自分の生活をより楽しくするための努力をされている、そんな姿に敬服した次第です。 まさに、聖者の境地を楽しむの境地なのかもしれません。 |
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