4 空の思想

ナーガールジュナ
大乗仏教が盛んになり、般若経などがまとめられて200年くらい経った頃、西暦200年頃、ナーガールジュナという哲学者が「中論」を発表しました。ナーガールジュナは龍樹といわれます。
この中論は、一言で言えば、般若経の空の思想を論理的に扱い、説一切有部の区別の哲学を批判するものです。ここに空とはどのように認識すればよいのかが示されています。
ナーガールジュナを先頭として、その哲学を継承していく学派を「中観派」と言い、1000年以上継承されます。
言うならば大乗仏教哲学の総仕上げということができましょう。
ナーガールジュナの哲学の一端について以下に見ていきましょう。

長い短い
父と呼ばれるからには子が有るからです。子もいない独身の男を父とは言えません。
また、父がいなければ子は存在しません。子だけ降って湧いてくるわけではありませんから。
あるいは、物干し竿は鉛筆より長いですし、鉛筆は物干し竿より短いです。
しかしナーガールジュナは、父と子、長と短、原因と結果など、対立した概念の一々に本体は無いと言っています。
長が短によってあり、短が長によってある場合、そのどちらにも本体は無いというのです。
短いものがあってこそそのものは長いといわれるのですが、別のものよりは短いかもしれません。例えば、お土産に売っている50cmくらいの鉛筆もありますし、ままごと遊びの10cmに満たない物干し竿もあります。一概に物干し竿は長いとは言い切れません。
普通の物干し竿でも、鉄道のレールよりははるかに短いです。
では物干し竿は長いのですか、短いのですか。
どちらともいえないわけですから、絶対的にいつでも何よりも「長い」という本体は存在しません。短についても同じです。
  子はやがて子をもうけ、父と呼ばれるようになるでしょう。生まれる前から、今も、死んでも子であり続けることはできません。
ある結果は未来永劫結果にのみ止まることはありません。別のものの原因になるからです。そうならば、それは原因でもあり同時に結果でもありうるわけですから、結果という本体は存在し得ないわけです。
これらは、言葉の定義が本当の意味での定義になっていないことにあると考えられます。
言葉というものは万人がそう言うものだなと認識できる程度のものであって、絶対的なものではないのです。

美しいもの
美しいとはどういうことでしょうか。美しい絵というけれども醜い略奪を描いた絵もあるし、ある人には美しく見えても、私には美しく見えないことも有ります。
唇を大きく出して串を刺し通した女性が美しいとされる場合もあれば、それは美しくないといわれることもあります。
美しいということは、その対象にあるのでなく、それを見ている人の主観にあるわけです。
従って、美というものは観念の問題であり、美という対象は存在しないのです。
ですけれども、私もああ綺麗だなと思ったことはありますし、貴殿も思われたことがあるでしょう。
美というものは存在しないと言い切ってよいのでしょうか。ここにも疑問が残ります。

言葉の否定
ナーガールジュナによりますと、壷という言葉と、その対象である壷そのものとには、同一という関係も無ければ、別であるという関係も無い、と言っています。
またこうも言っています。もし言葉と対象が全く同一であるならば、壷と言ったとき、粘土もろくろも無くてもそこに壷が出てこなければならないし、火と発声すれば唇が焼けるはずである。しかし、壷という言葉と壷という対象がまったく別異であるならば、壷と言っても壷という対象は思惟されないであろうから、全く別異だとはいえないと。
言葉とその対象は同一でもなく別異でもないわけです。
一つの言葉が多くのものを示していたり、その反対に、一つの対象を色々の言葉で示すことも度々であって、言葉と対象との間には一定の結び付きはないと言わざるを得ないのです。
言葉は対象そのものではない、と言うことなのですから、我々が求めている「解脱」ということも、対象としての真の解脱を示すことは出来ません。
そういうことであれば、言葉によって真の解脱にいたることは出来ないと言うことになってしまいます。
この事は現在も生きており、空と言うこと、縁起と言うことなど理論として理解するにはいたっても、解脱としての悟りにはまだ遠いといわれる所以でもあります。
いくら言葉で、縁起だ、空だ、解脱だと言ってもそれは真の我々が望む対象を表すことは出来ないのです。
確かにそうかもしれないけれども、先ずは言葉を介して理解しないことには始まらないというのが私の考えであります。

空間
説一切有部によれば、この宇宙の入れ物としての空間を虚空といい、現象の世界にある物と物の間にある隙間のことを空界と言っています。前者は生滅しませんが、後者は生滅します。この意味で空間としての性質が違っています。
言葉は対象を定義するものですから、空間の定義より前には空間は存在しない、もし定義よりも前に空間があるとすれば、それは定義されていないものになってしまう。と言われます。その意味を少し見てみましょう。
私たちは、空間そのものを知覚することはできません。あくまでも物体しか知覚できません。
そして、空間というのは、抵抗性を持たないで、物体の在り場所を提供するものであると、言う定義がなされてているからこそ、思惟によって空間を認知できるのです。
もしそのような定義がなされていないならば、直接空間を知覚できない以上、空間を空間と認識することはできないわけです。
これが、空間の定義より前には空間は存在しない、ということです。
後半は、もし、定義されていないのに空間を知覚したというのであれば、それはまだ定義されていない空間そのものを知覚したということであり、人間誰でも知覚出来ないのにそのようなことが有りはしないということです。

言葉の本性
我々は色々のものを定義し、名前をつけます。しかしその名前は人の名前や住所と違って、ある特定の固体を示すものではありません。
人間といえば貴方も私も皆人間です。机といえば色々の机を指しています。ある特定の机を示しているものでは有りません。もし有る特定の机を机と言うのであれば、他の同じようなものを机とは言えなくなってしまいます。
ですから、読み書きしたりする台のことを机と言うと定義されたならば、特定のものに対して机と定義はされず、特定のものを示す定義は存在しないのです。。
また定義されていないものには、当然定義は存在しません。
しかし定義と対象が全く関係の無いものならば、言葉の役割はまったくなくなってしまい、何一つ伝えることはできません。
要するに、言葉とその対象は、同一でもなく、別異でもないわけです。
言葉というものはこのように対象と同一でもなく別異でもないという相反する性質を持っていますから、永久不滅の特定された本体が存在するとはいえません。
すなわち言葉は本体の無い空なものなのです。
言葉で示される対象の方についても同じようなことがいえます。
二つの同じ机が有って、もしその内の第一の机が未来永劫机であり続ける本体を持つと仮定するならば、それを机と定義することになりますが、それでは第二の机は机とはいえなくなってしまいます。これは両方とも机であることに矛盾を生じます。これは本体を持つとした仮定に誤りがあるのであり、第一の机には本体は存在しないのです。第二の机についても同じであり、いくつあっても同じことが言えます。
すなわち、言葉で定義付けられるものはすべて本体を持たないということなのです。
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