5 空の本質
自我
自我というのは言葉です。
その対象は自我と定義されたものです。
言葉の方は本体の無い空なものであることは見てきました。ではその対象となる、自我と定義されるものは実在するのでしょうか。 先に述べた言葉の本性のとおり、言葉で定義される対象は本体を持たないのですから、自我と定義されるものには本体が無いことになり、実在しないということになります。
しかし、全く存在しなく、全くその定義である自我と関係が無いのであれば、自我と定義した意味もありませんし、我々が認識する対象としての自我がないというのもおかしなことです。
このように、自我は存在するのでもなく、存在しないのでもない空なものであるということになるわけです。
仏陀は色々の説き方をしています。
この世には何もないのだとする虚無主義者には自我は有ると教え、我見にとらわれているものには自我はないと教え、教えを深く学んだものに対しては自我もなく無我もないと教えるのです。無我もないというのは自我がないのではないというのと同じことです。 有ると言ってみたり、無いと言ってみたり、有るのでもなく無いのでもないと言ってみたりしているわけです。
滅茶苦茶なのでしょうか。いくら待機説法とはいえ、まるで矛盾した言い方のように受け取れますし、これが矛盾してないというのはどう言う事なのでしょうか。
矛盾しないのです。
次の例を見てください。
「不死の人間は美しくもなく、美しくなくもない」
不死の人間は美しくないと言っても間違いではありませんし、不死の人間は美しいと言っても間違いとは言えません。
不死の人間という対象が本体を持たず実在ではないからどちらも間違いではないわけです。どちらも正しいといえるわけです。
自我という対象が本体を持たないものであるからこそ、矛盾は無いのです。
自我は空であるからこそ矛盾しないのです。そして仏陀の教えはどれも正しいのです。
自我は本体の無い空であるからこそ自我で有りうるのです。もし空でなく実体を持つならば自我ではありえないわけです。
空の中にこそ自我はありうるのです。
概念と実在
般若心経においても、ナーガルジュナにおいても、概念は実在するものではないと言っています。しかし実在しないと言っているわけでもありません。
概念と実在とはどう違うかを説明するのに、否定と、否定の否定、という方法を使っています。これは既に述べてありますが、何々ではないし、何々でなくもないと言う論法です。これが成立するのはその対象が実在しない場合であることも述べました。
たとえば、兎の角、虚空に咲く花、などです。兎の角が実在しないことは誰にでもわかります。ですから、兎の角は鋭くもないし、鋭く無いこともないと言えます。
少なくとも本体を持たないものは実在しないことは明らかです。
概念と言うのは現れたり消えたりしますから、概念には変化をしない本体というものはありません。そうならば概念は実在するものではありません。そうかといって今何かを思えばそこに概念は実在しているように思われます。
概念は存在しないし、概念は存在しなくもない、と言うことになります。
そしてこのことは、概念に本体が無いのですから間違った表現ではありません。正しく表現されているのです。
この本体をもたず、存在するのでもなく、存在しないのでもない、ということを「空」と言っているのです。
縁起と空
説一切有部の哲学においては、苦というものを明確にし、その苦の消滅のための道筋を明確にして、一つ一つ修行によって達成していくと言う考え方です。
この人達から大乗仏教あるいはナーガルジュナの空と言う思想を見たとき、どの様に批判したかと言いますと、全てのものが空であって生じることも滅することも無いというならば、修行も宗教も悟りもなくなってしまうではないか。従って空などということはありえず、すべてのものは実在するものである、と反論しています。
これに対し、ナーガルジュナは、あの人達がそう言う批判をするのは、あの人達が空について、その目的と、その意味を理解していないからであり、空を誤って理解する愚か者は破滅するであろう、と言っています。
そしてナーガルジュナは
縁起と言う依存性のことを空と言うのであり、
その空と言う言葉は仮の名前にしか過ぎないし、
仏陀の言う中道そのものである。
縁なくして生じたものなど何もないのであるから、
空でないものなどどこにも有りはしない。
と、言っています。
空を、実体のないものであるという見方のほかに、別の角度からの見方として、縁起すなわち依存性としての見方で説明しているのです。
依存性を持たないということは、ある独立したものが他のなにものの影響をも受けることなくその存在を続けるられるということです。溶鉱炉の中に放り込まれても何の変化もしないわけです。
すべてのものは、他のものから何らかの影響や作用を受けています。
依存性のないものはありません。すべて依存性を持った存在です。
縁なくして存在するものはどこにもありません。
ものが空であるということは、ものが未来永劫変化しない本体として存在するのではなくて、原因になるものやその他のものの依存性、即ち縁によって生じていると言うことなのです。
ものが生滅変化するのはとりもなおさず縁起によると言うことであり、空であるということにほかなりません。
空を否定するするならば、生成や消滅変化は起こりえないのです。善とか悪とかも本体を持つならば善をなすとか悪をなすということも有り得なくなってしまいます。
空と言う言葉は、常識的な解釈として、よく一般に、何もない無の世界であるとか、夢を見ているだけで実際にはそこに何も存在しないことを言っているのだなどと誤解されています。
しかしそれは違います。
言葉は本体を持っていませんから誤解されやすく、無理からぬところもあるでしょう。
しかし空においては、ものはそこに存在します。頭をぶつければ痛いです。ただ、本体を持たない存在であると言っているのです。 多くの部品から成り立っているある一つの製品は、多くの集まりであると言うことにおいて、その定義からして本体を持つものでないことは明らかです。車は多くの部品の集まりであり、本体を持つ持つものではありませんが、これを便宜上仮に車と呼んでいるに過ぎません。
しかし車が無いのではありません。同じように、空と言うのも本体を持つ存在ではありませんが、空が無いというわけではありません。
空というのは、そのような本体の存在、あるいはそのような本体の滅、あるいはそのような本体の非存在のいずれをも越えるものであって、仏陀の説かれた中道そのものなのです。
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