空の思想
3 本体の哲学

説一切有部の言う本体
先ほど唯一の本体と唯一の作用を持つものを実在するものであると言いましたが、その「本体」とはどのようなものを言うのでしょうか。
説一切有部の哲学は、範疇に分類することと、本体の定義付けにあるといってよいでしょう。
説一切有部は、全てのものは皆、過去、現在、未来を通して永遠であるとしているのです。
ただ、全てのものとは言いましたが、不合理なものは除かれて、範疇には含められません。特に複数の要素から成り立っているものも範疇すなわち実在するものには含められません。例えば眼や耳など複数の要素の集まりである人間は範疇に含められず、実在するものではなくなります。また、別の例として、人の集まりである軍隊も範疇表には含められません。
更に別な例として、不合理なもの、兎の角、なとどというのも含められません。
説一切有部は、本体は、過去、現在、未来を通して永遠である、と言います。そして実在するものは唯一の本体と唯一の作用を持つものであると言います。
この、実在するものは本体を持つものであり、本体と言うのは、過去、現在、未来を通して永遠である、という考え方は説一切有部の重要な考え方です。
説一切有部は、そこにあるものは実在しているから見ることもできるし、認識することもできる。もし存在していないならば見ることはできない、と言っているわけです。

刹那滅
私の家には室内犬がいます。日本スピッツで、名前をユキと言います。
今ここにユキが居ますが、果たしてこのユキは本当に昨日居たユキなのでしょうか。
もしそうだとすれば、このユキは決して死なない不老長寿のユキになってしまいます。昨日のユキと今日のユキが同じなら、明日のユキも同じでなくてはならなく、永遠に続くことになるからです。
逆に、もし違うユキであるというのであれは、このユキはどこのユキなのでしょうか。
仏教には刹那滅(せつなめつ)という論があります。
すべての存在は、生まれた次の瞬間には消滅する。しかし一瞬前の存在を因として次の一瞬の存在を生じるのである。したがって常に連続的に存在することができ、しかも、その新しく生まれる存在は、一瞬前の存在と全く同じではない。という理論です。
少しづつ老いていく室内犬のユキ、その一瞬ごとに少し違ったユキになっているというわけです。
そこに陶器製の壷があります。一瞬一瞬繰り返しながら前の一瞬と同じ壷が再び生まれますからづっとそこに壷があります。
しかし、だれかが落として割ってしまった場合は次の再生は生じないと言う説明になります。
この理論によれば、永遠に続く本体というものは無いことになります。
すべてのものは同じように見えても移り変わっていると言うわけですから、永遠に変わらないものは無いというわけです。
それではと言うので、本体はある一定期間存在するのだ、というように定義したとしますと、これまたおかしなことになります。なぜなら、本体というのはそもそも永遠に変わらないものを定義しておいたのに、ここに至って、定義を変えようということになり、本体とは永遠なものをいうのか、一定期間のものをいうのか分らないものになってしまうからです。
要するに、説一切有部の言う範疇に分類された本体は存在することなく、更に刹那滅の理論を以ってしても本体は存在しないという事になるのです。

本体と作用
刹那滅において、作用の点はどうでしょうか。
一匹のユキが、あるときは歩いたり、あるときは眠ったりします。本体のユキに、歩くというある一つの作用、眠るという別の作用が時を異にして結合すると考えます。
このことは、本体と作用とが別でなくてはなりません。もし本体と作用が同じならば結合することは無いからです。
本体は永遠に変わらないものだという前提の場合には、作用も永遠に変わらないものでなくてはなりません。そうでなければ、眼が見たり聞いたりしてもおかしくないからです。
しかしそうすると、眼は見るという作用一つのみですから、本体の作用の現れであり、本体と作用は別々に独立して存在するものとは言えなくなります。
ユキの話に戻りますが、結局、ユキは一瞬一瞬生まれ変わっているのであるから、過去や未来にはそのユキは存在せず、今という瞬間のみを渡り歩きながら存在を続けているということになります。
別の言い方をすれば、過去にも未来にもそのユキは存在しないということになります。
そうして、今日のユキは昨日のユキと違ったユキとなっています。
ですけれども、おかしいではありませんか。昨日のユキは存在しないといいながら、昨日のユキと言ってしまっているのです。
今のユキは目の前に居るから存在として分りますが、昨日のユキというのは存在しなかったと言うのですから、昨日のユキを認識することは出来ないはずなのに平気で認識し比較しています。

知覚と思惟
ユキというものも刹那滅的存在ですから、今という一瞬に存在し、それが知覚されます。
しかし昨日のユキや明日のユキを思い描くことはできますし、さらに、生まれてくる前のユキを考えることも出来ます。死んだ後のユキをも考えることは出来ます。
これらの心に描かれるユキは私の心で思惟されているユキなのです。
只今現在における知覚によるユキと、この思惟されたユキを比較していたわけです。
したがってこのユキは、過去にも現在にも未来にも存在しているわけですから、思惟を生じさせているその対象こそ、ユキの本体であるといえるのです。
そうしてユキの本体は三世にわたって不変な存在であるといえることになります。
説一切有部はこのことを次のように論証しています。
  もし過去や未来の対象が実在のものでないとすれば、
  我々が過去や未来のものについて認識するとき、
  その認識は対象の無いものとなります。
  しかし対象の無い認識など有りうるはずはありません。
  したがって我々が過去や未来のものについて認識できるということは、
  過去や未来に本体が実在しているからであります。と。
説一切有部の言う本体とは、結局思惟の対象のことであり、言葉の対象としてのものということができます。
時計、テレビ、犬、猫、山、川、何でも想像し心に認識することができますが、それは今、時計、テレビ・・と申し上げたその言葉によって認識が生じたためです。
説一切有部の言う本体とは、認識すなわち思惟の対象であり、それは言葉だったのです。
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