2 説一切有部の哲学

範疇
上座部を元とする説一切有部は、分別論者とも言われます。
分別論者とはものを区別し分類することをその哲学の要旨としている論者を言います。これは何も説一切有部において独自に考え出されたことではありません。仏陀は色々の方法で説法しています。その中にはものの存在を幾つかの範疇に分類して説明すると言う方法もとられていますが、説一切有部はその点を強調しているのです。
分りやすい考え方ですし、仏陀の言葉であることにも間違いは無いわけです。
この範疇と言うのは、五蘊、十二処、十八界であり、各々のものはどれにあたるか分類するわけです。
五蘊はものと心に区分するものですが、物質的存在は全て色になります。受、想、行、識は少しづつ違いますが、四つとも心に関するものです。要するに五蘊の基本的な考え方は、全てのものを、ものと心に分類することにあるわけです。
十二処は、この世界は認識するから存在するのだとの考えが基本になっています。例えば、ものを目で見て心で視覚として捉えると言う場合、ものと言う対象と、視覚と言う認識を指しています。すなわち、客観の側として、色形、音声、香、味、可触物、思考の対象、の六つの対象と、主観の側として、視、聴、嗅、味、触、意、の六つの認識とに分け、合計12に分類したものです。
十八処は、主観の側の六つを更に器官と認識そのものに分けています。例えば視を眼根と眼識に分けるなどとして、六つの器官を定めて加えたものです。
説一切有部はさらに細かく分類し、有為・無為と言って、制約されたものと制約されないものとに分けるとか、煩悩のあるものと無いものに分けるとか、様々な範疇を考えています。
無制約と言うのは、原因の作用を受けず、生滅しないものを言います。無制約のものは三つしかありません。人が思慮することによる存在の絶滅と、思慮によらない存在の絶滅と、虚空の三つです。
例えば、無制約のものの最初のは、修行による煩悩の絶滅、次のは薪の火が消えるような絶滅、最後のは作られたものでない全くの空間そのものです。
制約されたものと言うのは、原因によって作られた無常なものであり四つに分類されます。物、心、心に伴っておこる作用、心に伴わないものの四つです。
物は十一種類に分けられます。心は一つですが、心に伴っておこる作用は数十に分類され、心に伴わないものも多数に分類されます。
これらの一つ一つを要素と言いますが、全部で七十五の要素に分けられると言います。また、七十五以上はなく、これで全てだと言います。
このような分類をなぜ行ったのでしょうか。
説一切有部が目指したところは、存在の分析をこのように徹底的に行ってみたけれども、自我というものはこの七十五の分類に含まれることは無い。したがって自我と言うものは存在しないのだと証明したかったわけです。すなわち仏教の根本である自我は無い、無我ということを証明したわけです。
五蘊が一切であり、この五蘊に含まれない自我と言うものは実在しないのだと言うことを詳細に証明しているのです。

実在
実在するとかしないとか言うにしても、その実在とはどういう事を言うのか、説一切有部の主張を見てみましょう。
  実在するものはそれに特有の本体と作用を持っているものである。
  実在するものは、複数の本体や複数の作用は持たない。
例えば、眼は見るものであり、意識は理解するものであって、これらが各々独立した作用を持っているのであって、もし、意識が見る作用と意識する作用を合わせ持っているとするならば、意識は眼に等しくなってしまい、別々に分ける意味はなくなってしまいます。別々に分けるのであれば、複数の作用を持つことは許されないと言うことです。
眼は眼と言う一つの本体を持っていて、決して眼が耳と言う本体は持っていませんし、眼が眼と耳両方の本体を持つこともないわけです。
ですから一つの要素は、一つの本体と、一つの作用を持つものであり、そのような、つまり、一つの本体と、一つの作用を持つ要素を実在すると言うのです。逆に言えば、一つの本体と、一つの作用を持たないものは実在しないものであるとも言えるわけです。
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