日本における梵字の普及

1 梵字の伝来
日本に梵字の資料が伝来した時期に付いては正確にはわかっていないようです。
仏教が伝わってきたのは六世紀の中ごろと考えられています。
しかしその初期の仏教とはどのようなものであったのかも、はっきりとはしていません。
当時は百済から大和朝廷に仏像や仏具が送られていたことから見て、仏像を礼拝するような形式があったものと考えられます。
しかし、経論はどのようなものであったのか、資料が残っていないため、明らかではありません。
文字や言語もどのようであったかも分かりません。
しかし、百済から来たということから、おそらく漢訳されていたのではないかと推察されます。
梵字による文献資料は最初にいつ来たのでしょうか。
百済からの伝来の中に梵字文献があったのかなかったのかは分かりません。
結局現存する最古の梵字文献は、法隆寺貝葉と言うことになります。
これは六世紀の初め、遣隋使小野妹子が持ち帰ったものと考えられます。
更に七世紀に入って数点の梵字資料の伝来がありますが、これらはいずれも断片的資料で、まとまったものではありません。

2 梵字の体系化
梵字が単なる梵字でなく、悉曇として体系化されてきたのはいつごろでしょうか。
752年、東大寺大仏の開眼のために来たセナ和尚は十五年間に渡って梵語を伝授したと言われています。
また、今のベトナムから来た仏哲がもたらした悉曇蔵のなかに、「或いは悉曇有り。人仏哲の将来と云う」とあり、字母五十字、十四章体制の悉曇章を記しています。
仏哲もこの悉曇蔵を教科書として、梵語梵字を教えていたと伝えられています。
このように悉曇章として七世紀中ごろには体系化されていたものと考えられますが、そこにあると言うことのほうが主体であって、十分理解されてはいなかったものと推定されます。
すなわちこの頃においては、体系化はされたけれども、まだ学問としては確立していなかったものと考えられます。


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ようこそおいで下さいました。    私は電気関係の技術屋でございます。   しかし若いころ、インテリアについてもそうですが、仏教特に般若心経に興味を抱き、仏教哲学をひっくり返してやろうと思ったことがございました。 でも調べれば調べるほど、他の宗教と違って、論理的で非の打ち所がないことが分かってまいりました。   そうして50歳を迎えたころまた思い立って、インテリアとは関係御座いませんが、原点としての貝葉に書かれた梵字の般若心経を漢字に直し、掛軸にして玄奘の翻訳とくらべてみました。   貝葉に梵字で般若心経が記録されたのは何時のことか定かではないようですが、その貝葉梵本を玄奘なりに工夫しながら翻訳したものです。    この二つの般若心経をみてみますと、随所にちがいがあります。 これが玄奘の考えたところです。    このようにした結果、貝葉の梵字般若心経と玄奘のそれとを直ちに見比べ出来るようになりました。   最初は大きいとか小さいとかインテリアと言うこと自体に意識はなく、普通の掛軸にしてしまったのですが、床の間に置いてみると立派なインテリアになっていました。上から下まで全て手書きです。   旧友がそれを見て、小さ目の掛軸にして般若心経のインテリアにするといいよといって、このような掛軸を作ってくれました。   ちょうど良い大きさの掛軸で、梵字主体の荘厳さのある掛軸となり、感謝しています。    この友達はアクセサリーやインテリア製作の専門家ですが、掛軸を作ったのは初めてだそうです。    でも流石、手工芸の得意な人だけあって、素晴らしいインテリアにしてくれました。  本当にありがたく思っています。    中田良作 拝書