3 悉曇 次に悉曇(シッダン)という言葉について見てみましょう。 悉曇という言葉には大きく分けて二つの意味があります。 一つは、梵字としての書体の名前を示しており、もう一つは、悉曇という言葉が語義として意味を持っているということです。 1) 書体としての悉曇 西暦6〜9世紀ごろ北インドを中心に発達した書体で、悉曇字母型のことを書体としての悉曇といいます。 この発達期の少し前の西暦4世紀、グプタ王朝時代にできたグプタ型文字が発展して悉曇字母型になってきました。 日本に伝来した梵字はこの悉曇字母型が基本となっており、法隆寺貝葉梵本の書体に見ることができます。 悉曇といわれる書体は、インドにおける長い文字の歴史の中で、ブラフミー文字を元としたグプタ型が発展した悉曇字母型の書体なのです。 悉曇という言葉は、一つにはこのような書体を示している言葉です。 2) 語義としての悉曇 結論から言うと、悉曇という言葉は、成就あるいは完成という意味を持っているということです。 少し詳しく見てみましょう。 a) 悉曇字記における悉曇の意味合い 悉曇字記に、「韻に六つ有り。長短両に分かれて字十有二なり」とあります。 ア、アー、イ、イー、・・アン、アクの12摩多を示しています。つまり母音を含むと言っています。 摩多というのは母音のことです。 母音を含むということは大切なことであり、大きな声ではっきりと発音できるということです。 しかし母音を含む文字はまだ33文字あり、これを体文といいます。さらに別摩多として4文字あります。 この発音できる文字という考え方が広がって、49文字を悉曇と呼ぶようになりました。 悉曇字記には「ナウマサルバシュニャーヤ シッダム」という題目にあたる部分がありますが、この「 」の中の前半は一切智者に帰依し奉ります、という意味であり、後の部分が悉曇で、成就あれという意味です。 その後に、摩多、体文、切り継ぎを説いています。 この題目から見てみますと、悉曇というのは、字母表の始めに付ける敬句として用いられているものと考えられます。 b) 弘法大師空海の解釈 弘法大師は次のように言っています。 「これは題字であって、インドではシッタンアラソトと言い、唐では成就吉祥の章を示しています」と。 古代インドでは、児童が文字を勉強する初めに当たり、習字帳の冒頭に学業成就を祈る「シッタンアラソト」という語を記す風習があったようです。 この学業成就を祈る句がいつの間にか字母表の題目になってしまったわけです。 しかしその題目の中には、学業成就を祈るという意味は残されています。 c) 法隆寺貝葉梵本における悉曇の用い方 法隆寺貝葉梵本は悉曇の資料としては世界最古のものの一つであり、非常に貴重な資料です。 この梵本には三つのことが書いてあります。 最初は仏頂尊勝陀羅尼というお経。次に般若心経。 最後に悉曇字母51字が書かれているのですが、その字母の最初に梵字で「シッダン」と題が記されています。 この使われ方から見れば、成就を祈念すると同時に、字母表を示す題目として使われているように思われます。 d) 日本韻学史の研究(馬渕和夫著) 近年の梵語学史上の名著とされる日本韻学史の研究によれば、「悉曇とは陀羅尼などのはじめにつけて、成就吉祥をいのる祝福の言葉である。・・・・それではなにの成就をいのり祝福するのであるか。これが陀羅尼であればその陀羅尼の効果をいのるわけであるが、悉曇章においては、おそらく章の成立であり、あるいはその学習であろう。・・・・梵字はあくまでもひとつの文字の呼び名である。悉曇は集団の呼び名である。その集団も、すでに悉曇章という音韻組織図を予想した集団なのである」とされています。(児玉義隆先生著より) 梵字というのは、複数ある文字の個々を示しています。この文字も梵字であるしあの文字も梵字である、と言う具合です。 悉曇というのは、学業の成就を祈る祝福の言葉であり、同時に、音韻としての組織を持つ字母表などの呼び名だと言われます。 |