先達の偉業  研究発展

1 安然
遣唐使が894年中止されたため、その後の日本における梵字悉曇学の発展は、入唐八家の収集してくれた文献に頼らざるを得なくなってきました。
安然はこの時期における梵字悉曇学の第一人者です。
安然は、先人の収集してくれた豊富な資料を精査し、集大成しました。
その著作悉曇蔵は、最大の成果と言えます。このなかで悉曇学のテキストとして、悉曇字記を置き、悉曇十八章を挙げています。
悉曇十八章は南天竺の悉曇を説いたもので、天台、真言両宗の手引書となりました。
さらに、現行梵字の学習書においても入門書的位置を占めており、極めて重要な研究成果と言うことができます。
空海から始まった日本の悉曇学は、安然以降最盛期を迎えることになります。
梵字悉曇は、天台宗や真言宗では必須の学問となり、密教とともに歩み始めました。

2 澄禅
安然以降、梵字悉曇学はなかなか進まず、むしろ衰退していきました。
実に700年ほど眠りについていたと言ってもよいでしょう。江戸時代に入り、再び活気を取り戻し、復興して参ります。
澄禅は復興に導いた先達の一人です。
著作は十三巻にのぼります。古い資料を本として書き改めたり、自筆の梵書も出しています。
澄禅の著作は、初学者を対象としたもので、摩多体文、悉曇十八章をわかりやすく説いています。
悉曇学への業績は素晴らしく、特に初学者の教育に尽力されました。

3 浄厳
浄厳は、法隆寺貝葉梵本をはじめ、入唐八家やその後の梵字悉曇請来資料などを詳細に調べ、悉曇三密タなど多数を著作しています。
普通真言蔵は、当時乱れていた真言陀羅尼を正すためのものでした。
さらに、法隆寺貝葉梵本を模写し、一言一言に音訳や意味を記しています。
浄厳の悉曇学は、書体、発音、悉曇学、梵語学と多義に渡っており、学問としての探求を主としていたように思われます。
浄厳の後、更に、杲快、賢隆、性善、盛典、雲寂、寂厳、慧晃、興隆などが続き、悉曇学の復興を図っています。

4 慈雲
慈雲は、今までの悉曇の範囲を超えて梵語学として梵学(インド学)を編成しています。その当時明らかになっていた古文献を多数収集し、自筆をも加えて実に一千巻に及ぶ一大手引書梵学津梁をあらわしています。
慈雲尊者は更に多くの著作を行い、尊者以降、悉曇を学ぶとすれば尊者の書から初めよといわれるほどでありました。


江戸時代の悉曇学の特徴
児玉義隆先生のご研究を更に要約しますと、次のようになります
(1) 悉曇字記の研究が中心であった
(2) 貝葉の梵字書体を手本に伝承梵字書体が見直しされた
(3) 先駆者的存在は澄禅、浄厳、慈雲の三尊者であった
(4) 悉曇学を文法的知識で捉えるようになった
(5) 梵字辞典が集成された
(6) 悉曇関係の書物が刊行され、一般に普及した


以上、主として朱鷺書房発行児玉義隆先生著「梵字必携」を参考とさせていただきながら、他の文献など調査し、私なりの解釈を述べさせていただきました。
児玉義隆先生の正しいご意見、ご研究結果をお知りになりたい方は、同文献をご覧になられますようお願いいたします。


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ようこそおいで下さいました。    私は電気関係の技術屋でございます。   しかし若いころ、インテリアについてもそうですが、仏教特に般若心経に興味を抱き、仏教哲学をひっくり返してやろうと思ったことがございました。 でも調べれば調べるほど、他の宗教と違って、論理的で非の打ち所がないことが分かってまいりました。   そうして50歳を迎えたころまた思い立って、インテリアとは関係御座いませんが、原点としての貝葉に書かれた梵字の般若心経を漢字に直し、掛軸にして玄奘の翻訳とくらべてみました。   貝葉に梵字で般若心経が記録されたのは何時のことか定かではないようですが、その貝葉梵本を玄奘なりに工夫しながら翻訳したものです。    この二つの般若心経をみてみますと、随所にちがいがあります。 これが玄奘の考えたところです。    このようにした結果、貝葉の梵字般若心経と玄奘のそれとを直ちに見比べ出来るようになりました。   最初は大きいとか小さいとかインテリアと言うこと自体に意識はなく、普通の掛軸にしてしまったのですが、床の間に置いてみると立派なインテリアになっていました。上から下まで全て手書きです。   旧友がそれを見て、小さ目の掛軸にして般若心経のインテリアにするといいよといって、このような掛軸を作ってくれました。   ちょうど良い大きさの掛軸で、梵字主体の荘厳さのある掛軸となり、感謝しています。    この友達はアクセサリーやインテリア製作の専門家ですが、掛軸を作ったのは初めてだそうです。    でも流石、手工芸の得意な人だけあって、素晴らしいインテリアにしてくれました。  本当にありがたく思っています。    中田良作 拝書